「言葉を追うな、意味を追え。」 人工内耳と要約筆記 


右の補聴器と左の人工内耳ともTモードにして聞くと良く聞こえる。話し手の話し方もうまいが話がそのまま頭に書ける。
聞き取った言葉がタイプされて並んでいく。
「情報の過多の例を考えた時に最初に頭に浮かんだのがこのスリーマイル島原発事故の例だったんですね。」

タイプでカナ漢字混じり文で、タタタと打ち出されて行くのはテレビや映画のシーンのようだ。


頭に浮かぶが、並んでいく時はその意味まで理解に至っていない気がする。

なんで理解出来ていないのか、考えたい。
乳幼児からの難聴で、14歳から補聴器を装用し始め、成人になり、20代、30代は職場では出来ないにしても難聴者の集まる場では、補聴器や磁気ループ、指向性マイクも使って聞き取れていたはず。40代後半から補聴器での聞き取りの力が低下していた。


聞き取りにくい耳で、端ばししか聞こえない言葉をなんだろうなんだろうと思いながら聞いているが、頭に言葉が並ぶというのは、その聞き取れていない虫食い状態の話が埋まって「聞こえている」かのようだ。


その聞こえた言葉の意味を考え、「成程。それなら今は事故対策はどうなっているのか」、「事故と言えば新潟の柏崎原発も危なかったな」とか、聞いて思考する作業が弱い。 

なぜ弱いのか。話を聞いて、それが自然に頭の中にイメージなり概念を構築することが十分に出来ていないだろうか。


聞く機会、聞く時間が足りないのかも知れない。普通は小学校から高校、大学の授業、講義とかなりの時間を人の話を聞いて成長する。
知識として脳内に蓄積される他、音声データとしても大量に蓄積されるのだろう。
聞くことで、言語を獲得し、コミュニケーションと行動体験とともに成長する。人格が形成される。

乳幼児からの難聴の場合。聴者に比べてこの蓄積が知識も音声データとも圧倒的に少ない。
だから聞こえた言葉の音をカナ漢字混じり文に並べる(類推)ので精一杯なのではないか。


人工内耳で聞こえたオンは何の音かも最初は言葉かも分からない。聞こえたピーピーガーガーが時間とともに段々言葉に聞こえてくる。

しかし、人工内耳は補聴器で言葉を並べる上で良い効果がある。言葉の輪郭が明瞭になるからだ。


聞くのをあきらめ、文字で話を聞くようになって、話されたことが文字になったものを読んで、内容を理解するのはまた疲れることがわかった。
そこから、見てすぐ分かる要約筆記の必要性が生まれる。

「言葉を追うな、意味を追え。」というのは名古屋の登録要約筆者の会が通訳としての要約筆記を際履修する講座のテキストの中のフレーズだ。
話された言葉をそのまま文字化するのではなく、理解しやすいように、言葉を再構築する。そのために意味をとらえることが重要ということだ。
要約筆記が通訳である理由だ。


実際に頭に言葉がならんでも理解しにくいならと要約筆記を見ると分かるということが何度もあった。
一方、人工内耳を装用するということは頭に音声データを今からでも蓄積したいということがある。


ラビット 記
写真は東大の側のお宮だ。「医王山」とある。