普通校に学んだ難聴児だったこと

50年たった今でも教室で教師から受けた屈辱は脳裏からぬぐい去ることは出来ない。
一方で、難聴をクラスに説明してくれた担任の姿勢は忘れていない。
今成人になっているかっての難聴児は多いですが現在の教育システムや制度改革の状況を理解していないことから、有効な施策提言が出来ないでいるのが悔しい。
今の普通校に学ぶ難聴児や人工内耳を装用した子供たちが、教師にも同級生にも受け入れられていないのを見て、心の中でエールを送るしか出来ない自分に腹ただしい気持ちを抑えることが出来ない。

これは当事者しか持てない感情というか心の澱というものか。半世紀経っても残っていることに自分でも驚くが、同時にいかに幼児期、学童期の教育の重要かを物語っている。

難聴児教育は、単純な情報保障だけでは済ませられない。障害を持つこと、人として平等なこと、障害を持つクラスメートに接する方法、コミュニケーションは時間もかかるものであること、自己の可能性を持つこと、自尊感情の育成など教育の現場に取り入れることはたくさんある。

なお、要約筆記者の教室への介入は慎重であるべきだ。ましてやボランティアではダメだ。要約筆記者の授業の前に教師と指導案、授業計画を打ち合わせたりするためには教員資格を持つか、教育原論など必要科目を学んだものでないと教育支援にならない。

ラビット 記