人工内耳の「聞こえる」について

人工内耳を装用すると補聴器を使っていても聞こえなかった音や声が聞こえるようになる。あるいは補聴器で聞こえていた言葉ほど聞こえなかったのが徐々に聞こえるようになると「聞こえる」と言う。
聞こえの不全状態から、聞こえるようになるので嬉しくなって「聞こえる」と言う。
決して、すべてが聞こえる訳ではなく、聞こえている状態でもない。

健聴者はいつも聞こえているので「聞こえるようになる」という体験があまりないので、「聞こえる」が状態変移の言葉であることを理解しにくい。
聴覚は自然の環境では聞こえなくなることはなく、いつも聞こえている。危険から身を守るためにいつも聞こえている必要があったからだ。
夜になって暗くなって見えなくなるので余計だ。耳にはふたがない。

人工内耳装用者が「聞こえる」から「分かる」までには時間がかかるが、意識的な効果的のトレーニングでより早くよりレベルアップが可能になる。

聞こえるようになる過程は、人それぞれなので決して人と比べられない。赤ん坊が這い這いからよちよち歩きするまでどのくらい日がかかるかは皆違う。
特に成人の場合は聞こえていた聞こえて期間や言語生活の違いで人工内耳の効果の現れ方が異なる。トレーニング(リハビリ)の内容、頻度も人と同じではない。
人工内耳装用者は聞こえの向上に自信を持って欲しい。

人工内耳の装用も補聴器装用も手話の使用も聴覚補償方法の一つで優劣もない。その人それぞれなので合理的配慮として音環境や通訳配置などその環境整備の内容に違いはあるがどれも尊重されなくてはならない。
聴覚主義として、人工内耳装用を非難することは筋違いだ。聴覚でコミュニケーションすることは権利だ。手話でコミュニケーションする権利と何ら変わらない。
非難されるべきは聴覚コミュニケーション至上主義だったり、聴覚に障害のある人に対する合理的配慮を無視する社会だ。

ラビット 記