難聴者のセルフアドボカシー(2)

中途失聴・難聴者向けの手話講習会に、こうしたセルフアドボカシー能力の重要性を気付かせる講義を入れ、聴覚障害の基本的理解と合わせて、手話の習得とこうした学習が相乗効果をもたらすようなカリキュラムが必要だ。読話講習会も同じだ。
コミュニケーション手段の習得を自己目的にしない方がよいということだ。


ラビット 記

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自分の聞こえない状況をいかに仔細に分析して客観的に説明するか、これはロールプレイなどで試しに実験してみるとわかりますが、結構練習と訓練がいります。いきなり今日明日からできるような能力じゃないです。
自己をいかに客観的に見られるか、という訓練をしながらも、適当な息抜き(ストレス解消法、難聴のピアのサポートグループ)をすることがセルフアドボカシー能力の発達に必要です。難聴者がお互いにこういうことを訓練できるピアサポートグループができたらいいですね。

それからこの到達度レベルは一個人のある時点での固定的なレベルではないです。
本人のその日の調子によって(例:風邪をひいていたり、疲れていたり、お酒のあとで勇気が倍増しているなど)、あるいは周りの環境によって同一人物でも 入門者になったり上級者になったりしますね。

上級レベルまで行くには本人の日ごろの訓練・努力もさることながら、相手が「ある程度理解してくれそう」な周囲であることが感じられないと訓練の成果も発揮できませんしそういう気分にもなれません。やはりコミュニケーションは双方通行ということですね。

せっかく上級レベルの能力がありながら全く無理解な周囲のせいで落ち込んでしまい入門レベルの行動しかとれていない人もいるでしょう。
逆に今は入門レベルの対応しかできていない難聴者でも理解ある周囲に囲まれていれば機会を得るごとに徐々に上級レベルの対応ができるようになるかもしれ ません(まれだとは思いますが)。

いずれにせよ、まず私たち難聴者がアドボカシー能力を育てなければ周囲は変わらないでしょう。


以前ラビットさんが、よく聞こえないのにわかったと言ってしまう背景には、もう少し先まで聞けばわかるかもしれないという期待感があるから、ということ を言っていましたが、これは難聴者と話者との関係の深さ(浅さ)と誤った自己認識を示しているように思います。
話者に対して100%満足のいく話し方をお願いできないような浅い関係だということ。

あるいは会社の会議などの場合、目立ちたくない、注文の多い難聴者と思われたくないなど、日本的な「出る杭は打たれる」または恥の精神文化も寄与しているでしょう。

誤った自己認識、というのは90%だけ聞こえても10%をたくましい想像力と過去の経験から「穴埋め」して理解した「つもり」になっている悪い癖のことです。でも90%の理解でも100%わかったと本当に思っていたら、それは難聴者が自己イメージを傷つけないために永年かけて無意識に発達させてきたサバイバル能力なのかもしれません。
知らぬは仏ー難聴者のみなりけり、なのですがね。


余談ですが、にどう聞こえて聞こえないのか周囲の健聴者に説明する手段として、当地ではSound HearingというCDが出ています。軽度、中度、重度、ろうの4段階の聴覚障害の聞こえ方を音で(文章で)デモンストレーションしているので、耳栓 したりせずとも実感をもってわかってもらえます。
私はよくこのCDを使って健聴者に4段階の聞こえ方を試してもらいディスカッションしてもらいます。「肩がこった」とか「軽度でもこんなに聞こえにくい とはしらなかった」とか「不安になった」とか様々な反応が出て有益です。日本にもこういうCDがいいなと思いました。