難聴者の矜持、プライド

難聴者は、聞こえることにもっと自信とプライドを持つべきだ。

その聞こえることは、誰しもがもっと伸ばす力を持っている。ただ、そのことを難聴者自身に知らされておらず、そうした環境がないだけだ。ましてや権利であることも自覚されていない。

難聴は、言葉のコミュニケーションが困難になる障害だ。
時と状況に応じて非常に困難な場合も生じる。
このことが、難聴者は自分の思考、心理、行動にどう影響しているのか、周囲との関係がどうなっているのか、客観的に理解しにくい。

なぜか。
一つには、難聴という状態が非常にめまぐるしく変容していること、それに伴い「障害」の状況も変わることにある。
心身状況、環境、相手の姿勢などに影響され、その

もう一つは、難聴が聞こえの障害と思われていることだ。聴覚障害は、聴覚という機能に障害がある用に思われるが、実は「音情報処理障害」や「聴覚情報認知障害」と言うべきものだ。

聞こえた音や音声が脳で理解するときに困難になっている。この脳で理解することを「聞こえ」という必要があるが、一般の理解は物理的に聞こえるというものだ。

難聴者や中途失聴者が、補聴器、人工内耳で言葉を脳で理解することは、訓練が必要だ。これを「聴覚補償」という。いわば、脳を鍛えることだ。

聴覚補償を、制度として求めるには理解がもっと必要だ。

余談だが、難聴者は聞こえる言葉をすべて文字化すれば理解できると思っている人が多いが、脳の「理解」と言う観点からは、聞いて理解することと読んで理解することでは理解度が大きく異なる。
情報保障の本質に関わる問題だ。

ラビット 記