聞こえないひとの主体性が奪われること

長男が小学校に入学する手続きに手話通訳者と行った際に、受付で何か聞かれた際に手話通訳者が代わって答えてしまったので、何を聞かれたのかわからずじまいだったことがあった。

こちらは何も言わなかったので、その通訳は聞こえない人の手助けをした満足感があったかもしれない。でも、子どもは聞こえないお父さんはやっぱりだめなんだと思っただかもしれない。こちらも父親としての責任を果たせない悔しさを感じていた。

もう20年も前のことでもはっきり覚えている。結婚して以来の二間のアパートから団地に引っ越してきたばかりの時分だ。
今でも鮮明に覚えているというのは子どもの面前で手話通訳者が聞こえない人の主体性を奪われたというのが今でも悔しく感じている。

切符の購入に手間取っていたおばあさんを手助けをしてあげたら、おばあさんは喜ぶかもしれない。
でも通訳を連れたり筆談ボードをもって自分で対応しようとしている聞こえない人にその意志をそぐのは本当の「手助け」にならない。
くだんの手話通訳者は地域のボランティアだっただろう。頼むとそれ以上のことをしてくれる人は要約筆記者にもよくみかける。
しかし一緒に活動している顔見知りの要約筆記者でも派遣されている時は顔つきまで違って見える。

通訳は通訳以上のことをしないというのは一見冷たいように思うかもしれない。しかし、高齢者の介護に当たる人は安全確保、医療効果、リハビリテーションによる機能回復、病気等の予防を優先しつつもその高齢者の主体性を尊重する。これは介護従事者の専門性の一つだが介護ボランティアだから主体性を損ねても良いということにはならない。

要約筆記者が奉仕員として養成されたころにはそうしたことはきちんと指導されていなかった。日頃から人間関係が希薄だった難聴者には手助けは嬉しかったのだ。難聴者側そうしたことが整理されていなかった。手助けと自立支援が区別されていなかった。

聞こえない人はその通訳を自分のコミュニケーションツールとして主体的に使いこなすことが自立でそれを目指す必要がある。


ラビット 記