「筆談ホステス」と社会の対応

斉藤里恵さんの書いた「筆談ホステス」がドラマ化されて、昨夜放映された。

この番組が放送された自体が難聴者、中途失聴者、ろう者の置かれた厳しい状況を物語っている。
例え番組が「感動秘話」として放映されたとしても、障害者福祉行政に関わるものはその状況を今に至るまで放置してきた責任が問われる。

感動秘話になるだけの厳しい現実があるからだ。聞こえないことに対する無理解と直接的、間接的差別を放置してきた政治と行政の責任が問われているのだ。
心ある関係者は番組を直視できなかったのではないか。

聞こえないだけ、声が出せないだけで人格すべてが否定されてしまう辛さは、悔しさを通り越して、自分の将来、可能性に対する絶望から周囲の人に対する敵意へさえも転化する。

これは、難聴者、中途失聴者、ろう者のいかんを問わない。あれこれのコミュニケーション方法、手段の問題ではない。

青森県が彼女を観光大使にしたことも耳にするがそれは自治体にとってとても恥ずかしいことだと気が付かないのか。
聞こえない彼女にそうした公的な役割を与えるならコミュニケーションの保障を青森県が責任を持つべきだ。知事は彼女と筆談すべきだし、周囲の人もそうだ。周囲に飛び交う音声情報は彼女に伝えるべきだ。
そういうことをしてこなかったことを反省せずに、観光大使に任命することが恥ずかしいのだ。

当然、たくさんの斉藤里恵さんが県内に日本中にいる。彼女とそれらの人たちの人権に何の差もない。対応に差があればそれは「差別」という。

要約筆記者派遣事業は青森県内全市で実施されているのか、養成事業に十分な予算を組み、要約筆記者に十分な報酬が予算化されているのか。
難聴学級、ろう学校にいる聞こえない子供たちの受ける権利は十二分に保障されているのか。
社会に聞こえない人たちの抱える問題と県民の取るべき理解を広める施策を実施してきたのか。
県内至る所に聞こえない人たちの相談を受ける施設があるのか、相談を受けることの出来る人たちが配置されているのか。
セルフヘルプ活動を展開する当事者組織の中途失聴・難聴者協会、ろうあ団体を支援してきたのか。

テレビや新聞は聴覚障害者の生活と実態を知らせる報道、キャンペーンをしてきたのか。


ラビット 記