聞こえない人の手話の多様性。

機能としての聴覚障害者をみると、聴力の有無が生来なのか最近か、残存聴力とその失聴時期のマトリックスで大まかに分類できる。
乳幼児から失聴していたからといって手話を身に付けているとは限らない。軽度難聴者でも手話を学習して身に付けている人も少なくない。
難聴者も聴力の程度はまちまちで、さらに感音性か伝音性か、難聴のタイプ別にそのコミュニケーション様式もまた多様だ。
同じように手話を言語とするろう者だから手話が一様かと言えばそうではない。国語力(日本語の理解の程度)もまちまちで手話表現もそれにあわせて多様だ。

こうしてみると、手話言語法制定運動が全日本ろうあ連盟の運動方針となったが、多様な手話の存在をどのように見ているのか。母語が手話というろう者の手話に「統一」してしまうのだろうか。手話帝国主義にならないのか。
どんな聴覚障害を持つ人でも自分にあったコミュニケーション方法を選択する権利があることは言うまでもない。

口型を付けた手話が理解しやすい聴覚障害者もいる。日本語対応手話(=日本語手話)が理解しやすい難聴者。中途失聴者もいる。
日本語手話を使う難聴者がろう者と話す時に手話通訳を求めても問題はない。

言語として、手話か音性日本語かの選択に、手話か日本語手話かも選択枝に含めるべきだろう。
そういう意味では、手話言語法制定運動にわくわくするものがある。

ラビット 記
※勤務先近くに止まっていた「タクシー」。