要約筆記にいらだつ。

二日間続けて、要約筆記の限界にあって、いらだってしまった。
パソコン要約筆記者が2名で、少人数の会議を要約筆記をしている。難聴者は2名がノートパソコンを見ていた。
司会をしている要約筆記者がかなりの部分をしゃべる。
質問や意見があると瞬発を入れず答える。
これがパソコン要約筆記者が打てない、入力画面をみていないがすぐに文字が出ない、聞こえる人同士の間でポンポン意見が交わされて、文字が出ないままだ。
出てきた文字列を見てこれは何かと聞いたりしていたが、とうとう堪忍袋の尾が切れた。
「そっちで何を話しているのか全くわからない、パソコンの画面を見て発言して欲しい。そっちにも画面が見えるようにしろ。」
日頃は全国で要約筆記の指導的立場にあたる人が聞こえる人だけのように話すのは納得が行かない。

翌日、立場の異なる相手との協議の場でまた一緒になった。ほとんど一人で話しているが、手書きのノートテイクが何が書かれているのか一顧だにしない。
相手に気を使って言葉をやりとりしているが、もう一人の同席している難聴者から話が出てこないことを不思議に思わないのだろうか。相手が緊張していたということが後で報告を見てわかったが、そうしたことは要約筆記の文字の中には出てこない。
途中で話を遮って割り込んだが、どういう話をしていくか、前もって打ち合わせが足りなかったが、手話通訳者ならろう者に話を促したりしながら進めるだろうにと思ってしまった。
その辺を言葉にして、要約筆記で伝えるように話し方を工夫すれば良かったが相手をなんとか自分たちの方に向けさせようということが先にたって、要約筆記でその場に「参加」している難聴者のことまで気が回らなかったのだろう。

自分は饒舌的に話しても、それが要約筆記でどのように伝えられているのか確認する姿勢が必要だ。
言葉の細かいニュアンスの嗅ぎ取りが必要な交渉ごとには、要約筆記は不向きだ。それを可能にする要約筆記者を育てようとしているが・・・

ラビット 記