「疾風怒濤」の青年期 難聴者の社会福祉の学習

なぜ「疾風怒濤」だったのか。
(1)音声による働きかけは言語的には不十分だったこと。
6歳になるまで自分が聞こえていないということを親も周囲も気づいていなかった。感音性難聴で全く聞こえていなかったわけではなく、サ行、タ行、ハ行の発音が明瞭でなかったので、これに関する言葉が聞こえていなかったのだろう。
「ヒコウキが飛んでいる」が「シコウキが飛んでいる」と聞こえていれば、単語や用法の獲得など混乱しただろう。
音素や音韻自体が不完全にしか聞こえなければ、思考の道具である言語を獲得するのが遅くなったとまでは言えないと思っているが。

(2)自分だけ会話の意味がわからずに取り残される孤立感が強かったこと。
弟や妹がテレビのアニメを見て笑っても自分だけ笑えないこと、家族の問いかけにも的確に答えられないこと、仲間とふざけていてもその動作に伴う言葉がわからなければピエロ的に振る舞うしかないことが日常生活でずーっと連続すると周囲に反応したり、関わることを止めてしまう。まともに関われば葛藤の底に沈む。心理的な防衛本能ではないか。

(3)難聴をどう受け止めるか身近にモデルがいなかったこと。
祖母も級友もいたが自分とは年齢も聞こえも違っていた。
なぜ自分だけ聞こえないのか。どうして周りに自分の感情を出せないのか、人と会話することに恥と恐怖感を持って過ごしていた。

児童期は本を読むことに熱中した。本は自分の世界が作れる。小学校のころ、深夜にテレビでアメリカのコメディアンのダニ・ーケイ・ショーを見ていた。字幕スーパーが会ったからだ。奥様は魔女狼少年ケンは洋画とアニメで口も読めずつまらなかった。
青年期は、体操部で肉体でコミュニケートする競技をしていたり、自慰にふけっていた。

今思っても、非常に苦闘した時期だ。

実践的臨床心理学は、自分と相手との相互の信頼関係が確立された中で相手を理解しようとする。
そのためには、自分の理解、自己理解を重視している。

設問で、友だちについて書けという。
シャワーを浴びながら考えて、難聴者団体に入るまで友だちは出来なかったこと、自分と同じようにコミュニケーション出来る仲間の中で「友だち」が得られたこと。難聴でありながら米国に留学した友に一番影響を受けたことなど。

自由記述欄は間に合わない、昼休みに書いて出した。


ラビット 記
おばあちゃんの焼いた厚さ3センチのホットケーキ