難聴者の合理的配慮の提案

以前のJDFフォーラムで当事者のからの発言で、難聴者の提言があった。

「合理的配慮」は、障害者権利条約に定義されている差別をなくすための措置で、行政や企業等民間組織も義務だが、個人の生活の場での筆談は国民に対する「合理的配慮」義務ではなく、「気配り」だというものだ。難聴者に対する自然な対応ということだろう。

合理的配慮は、障害を持たない人と平等な権利を行使できるようにするための様々な施策や措置をさすが、重要なことは「個別的に」対応するということだ。つまり一人一人のニーズに合わせることが求められる。

コミュニケーションの障害を持つ難聴者はひとそれぞれに合ったコミュニケーション支援を必要とする。しかも難聴者はその場、環境に応じても必要とする支援の内容が変わる。従って、それぞれに合わせた環境や支援を求めることになる。

手話通訳がいるから要約筆記は我慢しなければいけないとかはなく、今の講演は補聴器で良いが、次のパネルディスカッションの議論は白熱するのでノートテイカーの方が良いとかいう場合もある。

これは、難聴者の「わがままな」要求だろうか。いや、難聴という障害がその場に合わせた、多様なコミュニケーション支援を必要とする障害なのだ。ある人のある時の声は分かるのに、ここでは聞きにくかったなどと入うことはよくある。

問題は、難聴という障害が環境と心身状態によっても影響を受けやすいということとその対応方法もその場に合わせたものが求められるという社会的な理解が必要だろう。
そのために、当事者は何をすべきか、社会でどのような戦略が必要かを検討しなければならない。


ラビット 記