難聴児に、「自立させる」とは。

45年前の中学校の悪夢が蘇る。
担任が進級にあたり、「自分のクラスでは生徒に何でも自分でやらせています。どうしてもできないことだけ手助けします。基本的に何もしませんから、僕は。」と母は言われた。

難聴児に、自分で出来ることは自分でと言って、ワイヤレスマイクも使わない、ノートテイクも付けない、何のサポートもしないというのは一見「自立」を促しているようだが、実はそうではない。
「聞く」ということで自助努力でできることはごくわずかなものでしかない。

聞こえると言うのは、会話の内容が理解できて、自分の意志に何らかの影響を与えるということで、単なる物理的に音が入るのとは違う。

難聴者が聞くという場合、神経を集中させて聞く。話の部分、単語の頭か終わりしか聞こえない言葉を脳が超高速で類推する。これがどんなにか疲れることか。聴者の手話通訳者でも通訳は20分で交代する。

難聴児が担任とコミュニケーション出来なければ、級友とコミュニケーション出来ない。逆もある。
コミュニケーションできない級友と友だちになることができない。
親とコミュニケーション出来なければ、親を通じた大人の世界との関係が築けない。
難聴は関係性の障害というゆえんだ。

障害者権利条約は、インクルーシブな教育を進めようとするが、昔のインテグレーションの名の下に難聴児をサポートのない教育の場に放り込んだ撤を踏んではならない。


ラビット 記