話し言葉の要約筆記

人はコミュニケーションする生き物だが、言葉だけでコミュニケーションしているわけではない。表情や立ち位置、服装、髪型、手の動きなども含めて、コミュニケーションしている。

金田一秀穂という国語学者の「新しい日本語の予習方法」を読んでいたら、コミュニケーションにおいて、言葉の占める割合は3割くらいとある。敬語の研究は、言葉のみでなく相手との位置関係やその他の情報を合わせて分析するようになっているという。

とすると、その場で話された言葉をそのまま文字にするだけでは伝わらないことが多いということだ。
聞こえない人と話している人のコミュニケーションを成立させるということは話された言葉をそのまま文字化するだけでは伝わらないことが想像できる。

要約筆記が「通訳」」であるということは、その場で話し言葉の意味(メッセージ)を伝えるからだが、その話されている環境、視覚的な情報も含めて、あるいは話されていない情報も含めて要約筆記者が再構築した言葉(メッセージ)を文字で伝えるということだ。
話された言葉をそのまま書かなくても、全部書かなくても話し手のメッセージを伝えるのだ。

もちろん推敲された原稿がある学術的な発表など書記言語が元の話は要約しにくい。そのまま文字化すればよいが、目的からすればその原稿のコピーを入手することが望ましいだろう。
これは要約筆記というコミュケーション支援方法の問題ではない。その対象の特性の問題だ。
落語や階段などは声色、身体の向き、扇子と手ぬぐいを道具に見立てて話をするので、音声をそのまま文字化するだけでは面白さは伝わらない。

仮に、「なんか暑いわね」、「今日は暑いところをご参集いただき、ありがとうございました。」、「暑いから窓を開けましょう」、「今年の夏は暑かったので豊作が期待されるます」。
「暑い」という環境が話し手と聞き手が共有しており、主題ではない時、「書かない」選択肢もある。書かないことが主題を浮かび上がらせる。これも通訳の力だ。

全文か要約か、自ずと答えは出ている。


ラビット 記