難聴者の聞こえの範囲と思考の限界(2)

(1)からの続き。

音声によるプロソディは文字化すると大半は消える。だからといって音声をそのままの文字化にすることの理由にはならない。

音声が発されている時、聞き手は音声の持つ情報と話者の視覚的情報も受信しているはずだ。
電話やラジオ放送は音声だけになるのでプロソディが重要な情報になるので、話し方が重要なコミュニケーション技術になる。

では補聴器等の効果のない難聴者の場合はどうか。文字による情報補償が必要になるが、脳への刺激を十分にするには一つは要約筆記により理解しやすい言葉で示されることだ。もう一つは文字化したデータを提供しそれを読んで理解できる時間を確保することだ。
聞くのと読んで理解するのでは情報処理に時間がかかるからだ。
裁判員制度で裁判官、被告、検察、弁護士の発した言葉を難聴者が正確に理解するにはPC速記やリアルタイム文字入力で示されるだけで不十分だ。読んで理解する時間が要る。ここまで確保して「情報保障」になる。

もう一つの情報補償の方法はその話題について繰り返して話し合うことだ。会議の終わった後、あるいは会議の中でもう一度話題にすることが足りなかった理解を埋めることになる。聞こえている人はそれはもう話し合った、合意ができた、終わったと考えてしまうが難聴者の参加している場ではそうはいかないのだ。理解には時間をかけるということになる。

会議の議事録を見て、あれこれは聞こえてなかったね、これは要約筆記には出ていなかったよということが多い。
難聴者のその場における情報の量と質が聞こえている人のそれより遙かに低いことを難聴者自身も会議に参加している人も要約筆記者、手話通訳者も理解していなくてはならない。

このことを理解しない会議の進行は必ず後で齟齬が起こる。また、議事録を示してこういう話が出た、記録に残っているというのは少なくとも難聴者の参加している場合には適当ではない。

難聴者の合理的配慮の中身を精査する必要がある。


ラビット 2011年1月1日記