日本語の「読みづらい」理由 要約筆記の文字について

話し言葉をそのまま文字にすることが読むことは、聞くよりも負担(ストレス)になるということは日常的に感じている。話を聞くとそのオンが頭の中を駆け巡るが、文字を読むとそうはならない。
「日曜の表参道に桜がもう咲いていたよ」と聞くと「ニチヨウノオモテサンドウニサクラガモウサイテイタヨ」というオンが頭の中に残り、
「何で日曜に表参道にいたの?」、「えっ、もう桜が咲いているの?」、「表参道って、あのシャネルの旗艦店があるところね」とか頭の中で色々考える。
しかし、文字で読む場合はそうはいかない。文字を目で追って、その漢字と仮名を読み分け、その意味を考えるからだ。
サクラが櫻と書いてあったら、その文字を知らない人はそこで思考が停まるだろう。
その他にも、話し言葉の冗長性が文字になると、あれこれ言っているだけで話していること(意味)は一つしかなく、字数が多いだけかえって分からないということもあげられるだろう。

「日本語はどういう言語か」(三浦つとむ講談社学術文庫P96-97)には、日本語のヨコ組みが読みづらい理由として、二つ指摘している。
「文字を見るということをと言語として読むということをいっしょくたにして、見えたから読めたのだときめてしまっている」
「その文字の中に単語を区別し、その単語の意味を読み取りながら、単語の平面的なつながりの背後にある立体的な書き手の思想をつかむと言う、精神的な作業をすすめなければならない」

要約筆記のことを述べている訳ではないが、確かに聞くよりは読むことがストレスになるという理由にもなっていると思う。

ラビット 記

写真はNHK手話ニュース、ろう者は文字を読むより手話で「聞く」のがストレスがない。